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| 明治期は維新を経て成立した新政府による目覚ましい政治の改革により、近代日本が誕生すると共に急速な発展を開始した。それまで、戦国時代から維新初期にかけてはキリシタンの禁制を名目に外国との通
商貿易を徹底的に取り締まり、日本人の海外往来を禁止したために日本は長期にわたり国際的に孤立していた。このような鎖国政策により日本独特の文化は充実したが、外国の文化に触れることができなかったために、日本人の積極的な気質は閉塞してしまった。 ペリー来航という外圧により、日米和親条約が締結されて開国に向かい、5ヶ国通 商条約を締結して自由貿易を開始したのだが、江戸幕府は時代が経過するにつれ、全体として将軍の幕政遊離の傾向が強くなり、それだけ権力が低下したために綱紀が乱れ、賄賂政治が公然と行われる有様であった。このような幕政の将来と日本の未来に対する不透明、不安感から尊皇攘夷論が台頭し、維新の大波乱に突入する。 内憂外患という国家存亡の危機のなかで成立した新政府は、世界列強の重圧のもとで、ともかく独立国家としての体面 を保ちつつ、先進列強に追いつこうとして苦闘を重ねた。そして、形のうえではいちおう立憲制を取り、対外平等条約を結び、西欧列強と肩を並べるまでに成長したというのが明治期の日本である。その間、有力な政治家や先覚の士が欧米諸国の視察や留学を重ね、その優れた文物を摂取することに鋭意精進した。このような流れの中で、進取の気性にとんだ都市に住む人たちの間で西洋の文物が熱狂的に歓迎され、キリスト教も承認されるようになった。政府は西欧の近代技術を摂取するためには先ず教育制度を確立することが肝要と考え、明治元年に昌兵学校を復興すると共に開成所を設置し、翌年に大学設置を決めると直ちに開成学校を大学とし、小学校も設置した。更に翌年には東京と京都に中学校を開設し、明治4年には文部省を設けて学制を発布するなど教育行政に意を注いでいる。 (自由)教育令: 明治の初め、明治7年から明治12年の間は文部省が中心になり、イギリスとアメリカを模範として西洋文化の導入を果 たそうとした。それは、田中不二麿が文部大輔として事実上文部大臣の職責に就いた時期である。田中は当時アメリカに留学していた新島襄を紹介され、新島を伴ってアメリカ本国及びプロイセン、フランス、オランダ、イギリスなどヨーロッパ諸国の教育事情を調査した。帰国後の明治12年、田中の指導のもとでそれまでの学制で認められていた教育の国家統制的色彩 を廃し、教育の自由を大幅に認める「教育令」を制定した。それは後に「自由教育令」と呼ばれているもので、この間に私人による学校設立も幅広く認められた。新島襄の同志社はその1つであることは言うまでもない。 しかし、明治10年代といえばまだ明治新政府の基盤が固まらない時期で、国内では佐賀の乱、熊本神風連の乱、西南戦争が続いて発生する一方で、過激な欧化主義による風俗の乱れがあり、それらを憂慮する反動的勢力の台頭から政治的に不安定な流動状態にあった。そのなかで、国際的な国家の威信を保つために強力な政権の確立と富国強兵政策が求められ、それには官学制度を中心とする学制改革が強く要望されるようになった。 明治13年には再び国家統制主義的改正教育令が自由教育令にとって変わり、それが太平洋戦争まで続くことになる。 教育には多くの外国人教師があたったので外国語が尊重され、帝国大学(明治30年に東京帝国大学と改称し、同年京都に京都帝国大学ができる)を始めとする官立大学や同志社などの私学でも英語で授業を行っていた。このように西欧文物の摂取は明治期を通 じて教育を軸に行なわれたため、当初は外来文化を受け入れられなかった一般民衆も次第に変化していった。明治の特徴は比較的短期に集中して摂取された西洋文化により、その影響を受けた近代文化と日本古来の伝統文化の二重構造的な性格が、国民生活全般 に共通して見受けられることである。 |