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同志社は新島襄が設立した学園であり、新島の教育理念で一貫した120有余年の歴史と伝統を誇っている。
同志社には現在同志社の名を冠する男女共学の大学、岩倉高校、香里高校・中学(中学は2002年から共学)、国際高校・中学、女子の大学、高校、中学、男子の中学、他に幼稚園の11の学校を設置する総合学園であるが、これら諸学校の源流は、新島襄が明治8年に開校した同志社英学校にあり、それぞれの学校はその流れのなかから自らの生命を汲み上げている。その生命の源泉となるものはキリスト教を徳育の基本とすることであって、同志社の諸学校ではそれぞれの基本的、専門的知識を教育するに止まらず、これらの知識を運用する品行と精神を養成することを基本的な目的にしている。このような新島の教育精神によって相互に結合して学校共同体を形成しているのが同志社学園である。 新島が青年期を迎えた日本は、幕藩体制から天皇制統一国家の成立に向かう政治変革のただ中にあり、大勢としては開国と倒幕に向かおうと大きく動き始めていた。欧米先進資本主義国によるわが国の植民地化を防ぎ、近代化を進めるためには、自らが先進国におもむき、先進文化を学ばねばならないと考えた新島は、元治元年(1864年)6月14日の深夜に脱国密航してアメリカに向かった。この年には新島渡航の前後に池田屋の変、蛤門の変、幕府の長州征伐があり、英、米、仏、蘭の連合艦隊が下関を砲撃している。 新島はアメリカの商船ベルリン号で出航し、上海で同じアメリカの商船ワイルド・ローヴァー号に乗り換え、1年間の海上生活の末ボストンに到着した。その後9年もの長期にわたって欧米人の中で生活しながら勉学と研鑽を重ねた新島は、西洋文明の繁栄の根源をつぶさに観察することができた。そして、その根源が教育の充実とキリスト教による教化にあるとの確信を持ち、新しい日本を背負うべき青年をヨーロッパ、アメリカの歴史の中で培われてきた自由教育(リベラル・エデュケーション)を中心としたリベラル・アーツ・カレッジによって育成するという大きな教育理想を抱き、明治7年10月に10年7ヶ月ぶりに帰国し、翌年の11月に同志社英学校を設立した。 新島は9年間の米欧生活中の8年間を、主として南北戦争後のニュー・イングランド地方で生活しながら高等教育機関で学んだ。この地方ではメイフラワー号以来、宗教的な自由を求めて行動し、人間として自由の自覚に到達した人々が居住していて、ピューリタニズムとデモクラシーの伝統が根付いていた。 1620年、英国国教会がカトリックから完全に離脱できないことに反発した“清教徒”(ピューリタン)は、新天地を求めて母国イングランドのプリマス港をメイフラワー号で出港し、アメリカ合衆国の北東部にあるマサチユセッツの港に到着した。彼らが開拓したこの地域はその後ニュー・イングランドと名づけられ、合衆国の中で最も早く開かれた学術文化の中心地となった。 新島精神の源流: 新島精神の源流はピューリタニズムにあるといえよう。それは人間の生命、人格性、創造性など、一般 に人間性に根ざしたあらゆる価値を尊重し擁護しようとする精神態度であり、それを否定する非合理な伝統や権威、社会的不平等に対する徹底した批判と抵抗の精神である。それは観念的な精神ではなく、実践と行動をともなった信仰であった。われわれは同志社のスポーツ精神であるTriple(3)Fとの関連を理解するために、その源流を簡単に遡ってみる。 聖書の教えに忠実で敬虔なキリスト教徒の信仰生活は幾世紀もの間自由の保障を得られなかった。異端ということで初めはユダヤ教と対立し、その後はローマ皇帝によって激しい迫害と弾圧を受けたが、イエス自身の贖罪身代わり受難の教えを胸に秘め、「やがて主の降臨を」そして「神の国の到来」を信じて茨の道を歩んだ。300年後にローマ皇帝がキリスト教を公認し、信教の自由を認める法令を発布してローマ教会が世界の桧舞台に登場するようになると、今度はローマ教会が権威に安住して独善と腐敗堕落を重ね、キリスト教の信者は純粋なキリストの精神に生きることができなかった。 このようなローマ教会の堕落に反旗を翻し、激しく抗議(プロテスト)した一派がプロテスタントと呼ばれ、インテリや貧しい労働者層を中心にイエスの教えに忠実な新派としてドイツ、スイス、北欧、イギリス、更にアメリカへと広がった。それは宗教を根本にした運動に違いないが、社会の諸要素と絡み合ったいわば政治的社会的運動であった。 16〜17世紀、イギリスは当時の他の諸国と同じように、国家教会の形において宗教問題を収拾しようとしたが、この国教会の改革を不満として更に徹底した改革を要求したのがプロテスタントの中の清教徒(ピューリタン)である。このような経緯から、アメリカに移住したピューリタンは入植した土地を「神の約束の地」と受けとめたに違いない。 その後20年を経た1640年の英国では、ピューリタンを中心とする勢力が、政治権力として国王権の絶対性(王権神授説)などを廃棄し、イギリス王朝を倒してピューリタン革命(市民革命)を成就した。この革命はその後の人間解放の理念、啓蒙思想につながり、人間の生命、人格性、創造性など、一般 に人間性に根ざしたあらゆる価値を尊重し、擁護しようとするデモクラシーの精神が誕生することになる。 デモクラシーとピューリタンの精神に共通するものは人格の尊厳、良心、自由、平等、自主独立、自治の概念で象徴され、それは同志社立学の精神である。 アメリカに渡ったピューリタンは、彼らが理想とする教団を創設するとともに、東部沿岸の開拓と伝導にあたった。また、アメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)という外国伝道の団体を組織するほか、学校教育にも熱意を示し、ハーバード、エール、それに新島が学んだアーモストなど、日本でも著名な多くの大学を設立した。 新島が学んだアーモスト大学には当時としては珍しい体育館や天文台を始め地質学や美術の標本室があり、250名の学生は学内の寮に住み、19名の教授もキャンパスの住宅に住んでいた。そこでは将来の職業に役立つ学問にこだわることなく、ピューリタン的雰囲気のもとで知・徳・体の調和的発展を目指したリベラル・エデュケーションに重点を置いた教育を行なっていた。 新島は欧米滞在中にその人間観・世界観・教育観を形成し、1つの結論に達した。彼が理想とした人間教育は、キリスト教とデモクラシーを基本とし、知育を重視しながらも、知育に偏することなく、知育を正しく運用することができる品性の陶冶に重点を置き、それをキリスト教に求めたのである。新島の教育理念は「同志社大学設立の旨意」に体系的・具体的に述べられているが、その核心とするところは「教育の目的は独自一己の見識を備え、仰いで天に愧じず、伏して地に愧じず、自ら自己の手腕を労して、自己の運命を作為するがごとき人物を教養する」「知識あり品行あり、自ら立ち、自ら治める人民」「一国の良心とも謂うべき人々」の育成を目指すことにある。 |